「深大寺そば」の由来

深大寺そばが有名になったのは元禄年間、天台宗関東総本山東叡山寛永寺御門主第五世公弁法親王に蕎麦切りを献上して賞賛を得てからと言われています。
このごく一部の上層階級の人々にのみ賞味され絶賛されてきた深大寺そばでしたが、江戸後期の文化文政の 頃になると 次第に一般の人々にも食されるようになりました。そのきっかけとなったのは 当時の江戸の文化人、太田蜀山人です。彼が玉川巡視で深大寺に滞在した時、この深大寺そばを広く世に宣伝することにより 当時の江戸の人々に、とくに武蔵野を散策する文人墨客に深大寺そばは愛されました。
その後一般庶民に伝わり武蔵野を散策する文人墨人客に愛され、江戸後期から、明治、大正、昭和へとその伝統が継承されていきました。
このように江戸初期より三百五十年余の長い歴史的評価と伝統を持つ深大寺そばは、今や郷土名物として全国的に一層謳われ名声を広めています。

立ち食いもある深大寺そば

京王線烏山駅前にひとつの立ち食い蕎麦屋「深大寺そば」があります。このお店の麺には他の立ち食いとは違う独特の風味があります。食べたとき「これはうまいっ!」と感じた私は、「このお店は他のチェーンとは違う、何か由緒ある門前そばの流れをくむであろう有名な蕎麦屋に違いない」と思い、お店にいるパートのおばさんにたずねてみると、やはり近所にある深大寺そばの流れをくむとのこと。

江戸時代の深大寺そば

江戸時代の深大寺は、そばで有名でした。深大寺そばの名について『新編武蔵風土記稿』には武蔵国の内「いずれの地にも蕎麦をうえざることなけれどもその品、当所の産に及ぶものなし。ゆえに世に深大寺蕎麦と称してそのあじわいきわめて絶品と称せり」とあります。
『江戸名所図会』にも、深太寺そばを賞賛し、深大寺中にてそばを食する図まで載せています。このように、江戸市中にまでこのそばが有名になったことについて、一説には上野寛永寺大明院法親王の御時、深大寺境内にて作ったそばを献上し賞賛を得てからだともいわれています。
また好評を得た理由として長年信濃そばが人々の間でほめ味わわれてきましたが、近年深人寺境内より作り出されたものは、実の色が白く味も甘味で、しかも粉にするとその他のそばでは実一升あたり七、入割くらいしかとれないのに、深大寺そばの場合は一升二合の粉がとれ、一粒の実入りがよかったという点があげられています。

現在の深大寺そばは地元の農家が兼業

深大寺境内の周囲は古くから清浄な湧水の出るところとして知られ、この水を使った深人寺そばは水きりがよく、独特の味で評判でした。今日のように多くのそば屋が開店したのは昭和30年代以降の京王線の沿線開発や都立神代植物公園の開園(昭和36年)などにより都心からの行楽客が増えて、地元の農家が兼業ではじめた場合がほとんどです。

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深大寺の蕎麦

深大寺の蕎麦は昔からお客様へのおもてなしをする「ごちそう」でした。深大寺の門前に今でも「深大寺蕎麦」をうりにしたそば屋がひしめき合っています。